メディア掲載紹介

西日本新聞9月2日版1面に弊社の紹介記事が掲載されました。弊社のルーツである精錬方の事や昭和期のお話をしっかりと記事にして頂きました。 西日本新聞9月2日号-1面-

幕末の「精煉方」技術 今に 副島硝子工業の「肥前びーどろ」 佐賀市

透き通る清涼感と、柔らかな手ざわりが魅力の「肥前びーどろ」。幕末佐賀藩の理化学研究所「精煉方(せいれんかた)」にルーツを持ち、副島硝子(がらす)工業=佐賀市道祖元町=がその技術を今に伝えている。

ガラスの美 工芸の世界へ

精煉方は1852年、多布施川のほとりに設置。佐賀藩は、佐野常民を主任に秀才たちを集め、洋書の翻訳を基礎に蒸気船や大砲製造を進めた。カメラや紙、薬剤と研究分野は幅広く、佐野常民記念館の諸田謙次郎館長(63)は「日本の近代化と物づくりの発祥の地、原点になった」と話す。

飽くなき好奇心と研究熱を支えたのが、敷地内に置かれたガラス工場だった。昼夜煌々(こうこう)と火がともる熔解(ようかい)炉で実験用ビーカーやフラスコが作られ、火を操る術は肥前陶工たちの知恵があったともいう。

ガラス製造は日本では、弥生時代の勾玉(まがたま)製造などが確認されているが、本格的な国産が始まったのは17世紀前後から。出島での交易を通して製造技術が伝わったらしい。ポルトガル語がなまって「びーどろ」「ぎやまん」と呼ばれ珍重された。佐賀藩では武雄鍋島家が最初にガラス製造に着手し、精煉方での製造へとつながっていった。

副島硝子工業の初代社長、副島源一郎さんは8歳で精煉方に弟子入り。孫にあたる副島太郎社長(69)は「祖父はまだ子どもだったので、佐野常民さんから文机(ふづくえ)や革帯(ベルト)をもらいかわいがられたそうです」と明かす。精煉方のガラス技術は明治に民営会社に受け継がれ、副島硝子工業は1903年に独立。ランプやビン類で近代化に貢献し、金魚鉢やハエ取り瓶などが広く普及した。

昭和の高度成長期にはオートメーション工場の出現で経営難に直面する。太郎社長が営業担当として入社したばかりのころだった。「もう手作りはやめようとしていたら、職人さんが『30年ガラス一筋で、やっと作りたい物ができてきた。無念で仕方ない』と言うんです。そこで若造だった私にも物づくりへの羨望(せんぼう)が生まれた。『もうちょっと辛抱すれば、きっといい時代が来る』と、自分も工場に入って作り始めました」

手作りガラスブームのあけぼのも見え始めていた。看板商品の「肥前びーどろ」は精煉方ゆかりのガラス棒を使う「ジャッパン吹き」で、型を使わない宙吹きで仕上げる。柔らかな曲線の酒器「肥前燗瓶(かんびん)」は佐賀の酒席に異国情緒を添え、用と美を兼ね備えた器たちは茶人にも愛された。

近年では明るい色彩の虹色シリーズが人気で、「伝統を受け継ぎつつ、新しいガラスを作っていきたい」と太郎社長。アクセサリーや玉手箱なども企画中で、より工芸としてのガラスの美を生かしていきたいという。

理化学研究から近代化の原動力に、そして日用品から工芸の世界へ。精煉方の物づくり精神は、今もガラスのきらめきの中に宿っている。