メディア掲載紹介

西日本新聞9月2日版1面に弊社の紹介記事が掲載されました。弊社のルーツである精錬方の事や昭和期のお話をしっかりと記事にして頂きました。 日本経済新聞2月27日号-48頁-

吹きガラス 二刀流の極み

1000度を超す炉の傍らで、熱々のガラス玉を巻き付けた1本目の竿を吹く。プクーっとガラスが膨らむ。振って揺らして形を整える。

そこですかさず、2本目の竿を、助手から受け取る。1本目は左手、2本目は右手。2本を巧みに操りながら、両手を高く掲げて竿を再び吹く。
ものの3分。美しい曲線を持つ「肥前燗瓶」が姿を現す。

2本の竿を使う技術は「二刀流」と呼ばれる。吹きガラスの製法「ジャッパン吹き」の特徴的な技で、一生かかっても体得できない職人がいるほど難しい。私は唯一の継承者として、佐賀の工場で技術を磨いてきた。

吹きガラスは、型に入れて吹く「型吹き」と、空中で吹く「宙吹き」に大別される。ジャッパン吹きは宙吹きの一種だが、使う竿が違う。一般的な鉄製ではなく、ガラス製の竿を用いるのだ。

鉄製なら、何度も炉に入れて温め直せるが、ガラス製の竿は炉に入れると溶けてしまうので、やり直せない。そのため、熟練の技が求められる。

中学で決意

ルーツは佐賀藩がガラス窯を築いた幕末期にさかのぼる。当時はガラスの竿が主流で、それが日本独自の技術であることから「ジャッパン(=日本)吹き」と呼ばれた。明治期に官営のガラス工場で鉄の竿が採用されると、扱いが難しいガラス製の竿は廃れ、今ではうちの工場だけになった。

ガラス職人になる。そう決めたのは中学生のときだった。たまたまテレビで職人がガラスを吹いていた。ぐにゃぐにゃの塊がみるみるうちに形づくられ、固くなっていくのを見て、鳥肌が立った。すぐに修行に出たかったが、親に高校くらいは、と説得され、しぶしぶ進学した。

それでも諦められず、進路面談で「ガラス職人になりたい」と宣言した。先生は「やりたいことがあるなら、進みなさい」と、2日後には江戸時代から続く*本文が誤りで正しくは明治*佐賀の硝子工場に電話し、見学の約束を取り付けてくれた。生で見る職人技に感動し、気づけば1時間、かじりつくように見ていた。卒業後はそこに就職することになった。

工場ではほとんどの製品を鉄製の竿で作るが、「肥前燗瓶」だけはジャッパン吹きだった。日本酒を入れるための水差し型の容器で、昭和期まで佐賀の家庭の必需品だった。伝統工芸品だ。

「おまえに任せる」

職人は4人いたが、ジャッパン吹きができるのは工場長だけ。2本の竿を巧みに操り、左手で作った本体に、右手の竿のガラス玉を合体させて、注ぎ口の形を整えていく。一分の隙もない手さばきに憧れ、休み時間にこっそり練習していると、「おまえにはまだ早い」と怒られた。

5年ほどたったころ、工場長が体調を崩して入院してしまう。見舞いにいった私に「おまえに任せる」とひとこと。これまでの頑張りを買ってくれていたのだと知り、胸が熱くなった。24歳の若さで工場長を継いだ。

とはいえ、ジャッパン吹きは教わってない。毎晩、工場に残って練習した。初めにガラス製の竿を作るが、それさえもうまくできない。竿ができても、こんどは本体の形をが決まらない。吹くタイミングもわからない。

山積みの失敗作を前に悔し泣きする日々。「二刀流は一生かけてもできない人が多い」という先輩職人の言葉が頭をぐるぐると回った。「諦めなければできる」と自分を奮い立たせて製作に向かった。

能登へ修行に出る

2年ほどたったころ、何とか形にはなった。ところが「酒のキレがわるい」「大きすぎる」と返品が相次ぐ。技術も知識も足りないと思い悩み、ガラス製造で有名な能登に修行に出ると決めた。工房でガラスを作りながら専門学校でも教え、5年後に佐賀に戻った。31歳になっていた。

この経験が糧になった。勘に頼っていた温度やタイミングを理論的に考え、失敗の原因が突き止められるようになったのだ。しばらくして燗瓶の返品はほとんどなくなった。それから7年。ジャッパンを始めて15年になるが、ようやく最近、納得のいくものが作れるようになってきた。

それでも先代のようにはいかない。容量に狂いがなく、口は注ぎやすい絶妙な形をしていて、何より本体の曲線が美しかった。「おまえに任せる」といってくれた思いに報いるためにも、技術を磨き続けなければならない。
(ふじい・たかし=副島硝子工業工場長)